2020年06月16日

法華経の第8巻のなかに記されている小欲知足について

私たちは、たくさんのことを思い苦しんで生きています。そんななか、お釈迦様は、心安らかに暮らせる道を説いています。
この人は、心素直にして,正しき思いをもって福徳の智慧を有しているであろうと予想されています。その苦しみの要因は、三毒に悩まされていることです。三毒とは、貪り、怒り、愚かさである。また嫉妬、我慢、増上慢にも悩まされている。いわゆるおごり、高ぶり、慢心の心です。
 そんな苦しみから解き放たれるには、少欲知足をすることである。
posted by 玉泉寺 at 12:49| 日記

2020年06月12日

鏡に映ったのは

ある貧しい人がいました。借金が貯まりすぎて、「取り立てはいやだ。」と家を飛び出しました。だいぶ遠くまできたときに宝箱を見つけました。
「やった。これで借金が返せるぞ」
と宝箱のふたを開けると、すると一番上にあったのが鏡でした。そこに写った自分の顔を見て宝の番人と勘違い、宝箱と思っていました。中にあなたがいるとは知らなかった。怒らないでください。
鏡に謝って逃げ出しました.
私たちには、たくさんの煩悩(良くない心)のために苦しんでいます。苦から抜け出すために修行をして良いことを積み重ねます。これが宝箱に出会ったようなものです。

自分というのは仮の姿です。いわゆる無我の境地です。ところが、自分の身体に執着してしまうとあるはずのない我が実在すると錯覚し、その見方が正しいと思い込み、苦しみは始まるのです。
あるはずのないものに執着するようでは、積み重ねてみた修行が台無しになります。
鏡に写った自分の姿を見て、いるはずのいない番人がいると間違えて、宝を放り出すことになるのです。
欲を思わないで、今ここに生きていることを喜ぶができたらそれでいいのではないでしょうか。


posted by 玉泉寺 at 08:54| 日記

2020年05月22日

華菓同時(けかどうじ)

華菓同時という言葉は、法華経ののなかにのべられています。これは、白蓮華のように花が咲いたときには、すでに果実をつけているという意味です。
 蓮の花を開くとき、すでに、中央にははちすという種子を宿しています。
人は縁あって、仏様に信心の心を起こせば、仏の種が譲り与えられるというたとえであります。
現在、コロナウイルスという疫病が蔓延している。そういうときにお寺をお参りして、自分を見直すことができれば、仏様の種子を頂いて、命に感謝する。
蓮(ハス)を育てて、慈しみの心を育てることが、信仰の心を育てます。
是非、当山にお参りください。
posted by 玉泉寺 at 02:28| 日記

2020年05月09日

佛法は遙かにあらず

仏法とは、人間が生きていくための教えのです。人は、自分が,自分が心で生きていくと他人と争いを招き、不幸を招いてしまいます。自己中心の生き方をするから、うまくいかないのです。少し物事を大局的に考えると、答えがみえてきます。どんな困難の道でも、努力と忍耐で歩んで行けば、答えが得られます。泥臭く、汗をかいて行けば、そこには答えが得られる。それが修行である。
現在、朝、読経して、本堂の掃除、境内の掃除、境内にある草花をお供えする毎日をしています。寺の藪にはいって、タケノコを採れば、縁者に届けに行く。そこで、貴重な出会いがある。その人の喜びを顔に拝すれば、満足感が得られます。
そこに、仏様のおしえが接することができる。これが、わたしの生き様であります。

佛法はるかにあらず
心中にてすなわち近し
真如外にあらず
身を棄てて
いずくんか求めん
posted by 玉泉寺 at 13:54| 日記

2020年05月05日

非常事態宣言の延長される

非常事態が延長されると、私たちの暮らしはどうなるのでしょうか。経済活動が再開されないと、生きていくこと事態困難になります。
私は、僧侶です、お布施で生かして頂いています。他の収入がありません。どうしたものか悩んでいます。
今私のできることは、人々が幸せに暮らせるように祈り続けることです。そして、私自身感染しないようにすることです。他のお寺さんは、拝観停止をして、感染拡大の予防策を打ち出していますが。毎朝、仏さまに祈り続けることだと考えて、読経をし続けています。住職して20年になりますが、病気一つもかかってことがありません。お腹からを声をだすことはいいことです。
ようやくワクチン開発も目途がついてきました。あと少しです。皆さん申し少し頑張って下さい。
坂村真民の詩を見つけました。

少食であれ!
これは健康のもと。

少欲であれ!
これは幸福のもと。

この二つのものを
しっかりと身につけよう。

この世を悔いなく終わるため。
この世を楽しく生きるため。
未来に向かって、祈り続けていきたいです。」
posted by 玉泉寺 at 16:20| 日記

2020年05月01日

心清らかに生きるには

朝起きて、先ず,手を洗い、口をすすぎ、心を戒め,慎みて、仏前にいたり、この内に真身の本尊ましますと思い、扉を開くべし。もし心この本尊は木にて造りたるものなりと計り思いて、敬う心なく、粗慢なるときは、定めて、罪を得べし。
 次に華を備え、灯明を献じ、香を薫じ、あるいは時節の果物、花を供えには、能く洗い清め、如法にして献ずべし。すべて花、並びに菓子をなどを盛りて供養するに、人のみる方計り飾りて、仏の方を粗略にするはよろしからず、少しのものをも実意に供養したてまつるときは、本尊納受したまうがゆえに、広大の功徳を得るなり。
もし至誠心なく、名聞の心をさしはしみ、粗慢にして供ずるときは、たとひ種々の珍物を供えるも利益少なし、唯貪りの心起こさず、力及ぶほど好きな品を調えて供養すべし。その勤め式の意味はその人の意楽にまかすべし。
天台真盛宗の朝のお勤めをします。
つまり、身体の汚れをなくし、仏様の御利益に頂れれば、健康で、明るく人のために尽くすことができますように祈るのであります。
 まさに、今の生き方でなのであります。
posted by 玉泉寺 at 18:25| 日記

2020年04月29日

無一物人生

コロナウイルス渦で、人生最大の危機に陥っています。とにかく、どこにもでかけるな。学校はいけないし、仕事に行けば感染して、命の保証がない。買い物にも行けなくなるのもそう遠くないでしょう。つまり無一物になる。
この無一物という言葉は、お釈迦さんのことばである。悟りを意味するものである。
 人間は、欲深い生き物です。あれもほしい。これほしいと底なし沼におとされた状態です。今は便利で、なにもかも手に入る。仕事もそこそこあって、収入が得られる。お金が手に入れば、何でも買える。手に入らない物はない。一番ありがたいのは、車です。公共交通機関を使わなくてもどこへでも行ける。
 車ほど便利な乗り物はない。もし、車を所有していいなかったら、どんな人生を歩んでいるでしょう。
買い物もできない。灯油も買いに行けない。ガソリンも買えない。当然、車を買っても外出ができない。
人生にとってこれほど悲惨なものはない。これが無一物といいのでしょう。
お釈迦さんは、このことがいいたいのでしょう。
無一物なれども、生きていけるのです。人間社会は、一人では生きていない。誰かれと支え合っているのではないか。そこに会話が生まれ、してほしいことを通じ合える。こういう生き方をするのは仏教ではないか。
小欲知足という言葉は、お釈迦さんの言葉であり、欲がなけれども、足る心があれば、十分に生きていけるのです。
今、不自由な暮らしが、私たちの暮らしに未来を与えてくれるのです。
もっと、考えよ。時代に流れされるのではなく、智慧を出して、そして、寄り添える心を持つべきではないかとおしゃかさんは説いているのです。

posted by 玉泉寺 at 11:03| 日記