2019年09月27日

一日一生って

人は毎日、生まれ変わっています
だから良きにつけ、悪しきにつけ、すべて今日で終わります
今日がはじまったときに
あさおきれば、それが新しい命の誕生です。

人は、生まれてそして死す。これが真実です。だれも疑うことが出来ないのです。
だから、今日を大切にして、悔いの残らない歩んで行かなければならない。
他人のお葬式にいって、明日は我が身と思わなければ、非常に悲しい。
posted by 玉泉寺 at 07:46| 日記

2019年09月23日

お彼岸の修行 六波羅密の修行

お彼岸は佛教の修行です。お中日の前三日、後三日の一週間修行をするのです。それを六波羅蜜行と言います
では六波羅蜜行はなんでしょう。それは布施行、忍辱行、精進行、禅定行、智慧行 持戒行、の六つ修行
をいいます。
布施行  金銭のお布施ばかりでなく、教えを説くこと、相手の恐れを除くことなど相手の欲しているをしてあげることです。
持戒行  戒律を守り、自己を反省すること
忍辱行  迫害を耐え忍ぶこと
禅定行 心を安定させること
智慧行 真実を学び、命の大切さを学ぶこと

 佛教では、不殺生戒を設け、生き物の命の大切さを学び、与えられたものを残らず食べること、生きて行くことが一番大事ことを学ぶことで有ります。
今自分が生きていることに感謝し、そしてしっかりといくべき道を見定めていくことがお彼岸の心です
posted by 玉泉寺 at 04:26| 日記

2019年09月21日

摂取不捨の光明は念ずるところを照らすなり

この言葉は、比叡山で修行した恵心僧都が往生要集を説かれたところから見いだされたのです。
往生とは、阿弥陀仏の浄土に生まれると言う意味です。生まれるために念仏を唱えることをすすめられています。その真意は、日常の心がけに念仏を唱え、臨終の念仏を説いています。
 いよいよ最後だというとき、死を目前にした人を静かに寝かせ、枕元で阿弥陀仏が迎えに来る姿を描いた掛け軸や仏像を安置して、呼吸が苦しくなって念仏することが出来ない場合は、まわりの看病する人が共に声を出すことで、その人の念仏を助ける。そうすれば、命の終わる時に阿弥陀仏が浄土から迎えに来てくださると言うことが、先の往生要集に説かれています。これは平安時代中頃から、臨終行儀が実際にはやったようで、現代社会のターミナルケアの先駆ともいうべきです。
 今を去ることはるか昔に法蔵菩薩がすべての人に仏にしたいと言う願いを立て、四十八の願いをすべて成し遂げる阿弥陀仏という仏になったと成ったとされています。
 その法蔵菩薩は、
 私が、仏になるときすべての人々が悟りを求める心をおこして、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、私が多くの聖者たちと共にその人の前にあらわれよう。そうでなければ、私は決して悟りを開きません。
この8万四千の光明を、ひとつひとつの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々残らずその中におさめとり(お攝め)お捨てになることがないとということです。
阿弥陀仏の光明は、全宇宙を照らしており、念仏するものをおさめとりて捨てることはない。
念仏しないものは救われないという意味ではないことを付け加えておきます。
日常の悩み多い生活のなかで、念仏を唱える実践は。阿弥陀仏を感じることが大切なことですと恵心僧都は教えられています。
posted by 玉泉寺 at 08:41| 日記

2019年09月18日

人間にうまるること大いなる悦びなり

人間として此の世に生まれることは難しい。それなのに私はそでに生まれてきた。
仏の教えを聞くことは更に難しい。
それなのに私はすでに教えを聞く機縁をいただきました。
この機会に迷いの世界から抜け出すことが出来なければ、次にどんな世界に生まれ変わるかわからない。
人間に生まれた今こそ、皆共に三宝に帰依して迷いから脱出しよう。
釈尊は、地面の土を手に取って、爪の上にのせて、弟子達に向かって質問をした。
あなた方はどう思うか。この爪の上の土と大地の土の量はどちらが多い徒思うか。
弟子達は世尊、もちろん大地の土の方が多く、爪の上の土は極めて少ないです。大地とは比べものにはなりません。
釈尊は、その通りである。それと同じく人間に生まれたもので、この生を終えてまた人間に生まれるものは大地のごとく多いのである。それゆえにあなたがたはこのように学ぶべきである。私たちは勝手気ままに過ごすのではない。
人間として、此の世に生まれることがいかに難しいか、人間として生まれたこの機会を逃せば、生と死を繰り返す迷いの世界を脱出することが出来ないのだから、今こそ心して教えを学ばなければ成らないということです。
posted by 玉泉寺 at 19:11| 日記

2019年09月12日

牛乳の保存法について

 ある農家で牛を飼っていました。毎日牛乳を搾っていました。今日牛乳をしぼりながらこんなことを考えました。
 牛乳ってすぐいたむんだよな。
 だから、今日しぼった牛乳を残しておいて、明日たくさん飲もうと思っても無理だよ。
 そうだ。
 子牛に乳を飲ませないようにして、しぼった牛乳を母牛に飲ませておけば、いたまないでたくさん保存できるのじゃないか。
 さっそく実行します。
 それから一ヶ月ほどして来客がありました。
 ようこそ、いらしゃいました。今からたくさんの牛乳をお出しします。
 と言って、乳をしぼりに行きました
 あれ、一滴もでないぞ・・・・
 この話には、お寺から寄付をいうてこられ、今は少ししかないから、たくさん収入が入ってからするよ、ということではないでしょうか、
 でも、たくさん現金を貯まる前に他人に盗まれたり、寿命がきてしまったら、その人はどうだろうか。
お寺に寄付をすると言う善行を積む事ができなくなるのでしょう。これでは何にもなりません。
 いつもどおりしていればお客さんに牛乳を飲んでもらうことができるのですが、牛乳をためようとしたお陰で、飲んでもらうことができなくなったのです。
 非常に哀しい話です。
 牛乳を保存する行為は、保存の方法を間違えれば、腐ってしまい、人々に喜んでもらえない、少しでも、提供することが出来れば、人は喜んでもらえると。その人の評価は上がることになる。


posted by 玉泉寺 at 11:11| 日記

2019年09月07日

そしりを忍ぶ人こそ、常に勝利がある

108歳になるおばあちゃんがいます。お顔には艶があり、ほのぼのとしています。
そのおばあちゃんに長生きの秘訣を聞きました。
二つあって、一つは自分の畑で作ったものしか食べない。二つめに他人の悪口を絶対に言わないと言うことでした。
一つめは、今時代ではほとんど無理ですが。2つめは誰でも心がけ次第で出来ると思いました。
他人のことをののしると自分のところに返ってくる。すると心が病み、健康のためにはならない。とおしゃられていました。
人間の心というものは、胸の真ん中にあるのだそうです。これを方寸(ほうすん)と言います。上に行ったり、下に行ったりそうです。怒りっぽい方は上に行き、がまん強い人は下に行っているそうです。方寸が突然上に来ると頭にきたと言います。
 心が下腹部に行くと、これを臍下丹田(せいかたんでん)と言って、ここに力が集まると、勇気と健康が生じると言われています。ところが、他人のことをそしったり、ののしれば、方寸が臍下にまで行かないので耐え忍ぶことが難しいのです。
他人にあまりのことをいわれると、ついついこちらも返そうと思うのが人間です。返せば争いになり、何を言われても耐え忍んで静かに微笑んでいれば良いのです。しかし、耐え忍ぶ人には勝利があるのです。
いったん口からでた言葉はもう戻りません。一言が命取りです
うっかり口をきくと大事な命を落としかねない。ましてや、他人をそしると大きな争いを生むことになることを肝に銘じたい。
posted by 玉泉寺 at 10:14| 日記

2019年09月06日

一塵のなかに無量の諸仏まします

一塵(いちじん)というのは,存在するものすべてと言います。
目にみえない塵(一匹のアリ、一輪の花、草、木、雲、など)にすべてほとけさまがまします。
草むらを分けていく水をみて、なにか感動する。ながい間、苦しみや悲しみをせおって生きている人々は他人からの激励の言葉がありません。何も言わずに、そこに咲いている一輪の花に涙を流す。そしてそこから言いようのない力を得、明日への人生を切り開いていく。
あるきこりさんが、木だって生きているのだと言った。
 春の芽吹きのころ、大きなブナのもとでひとり昼の弁当を食べていて、何となしに木に寄りかかったら木のなかで、なにか音がする。耳を澄まして聞けば、それは芽吹きのため根から、水を吸い上げる大きな音とわかった。
 わーすごいな。水がきのなかを音を立ててのぼっていく改めて木の下から上へと見上げてしまった。この事があって、きこりさんは生きる姿勢を変えてのです。山に入るときは、大きな声でおはようといい、帰るときは、ありがとう,お世話さまでした。今日も事故なくてよかったよ。とあいさつするようになったそうです。
これは、目の前にあるものの中に、いきいきといきているものの命を見、仏様を見ているのです。
正法眼蔵の中に、「山河をみるは仏性をみるなり」
見るもの、聞くもの、行くところ、すべてが仏様がいる事がわかった。
そして仏様を感じるために、自己を磨くと言うことは大切なのです。心のレンズが曇っているとなにひとつ映ってくるものはありません。いつも学びを大切に行きたいと考えます。

posted by 玉泉寺 at 03:15| 日記