2019年10月22日

頼むところは弥陀兆載劫の願・・・・

この言葉は開祖真盛上人の言葉です。
私たち生きるものすべて、阿弥陀様にお誓いすることが出来れば、仏様の境地に近づき、心安らかになることができる。其れが成仏というものである。
真盛が、この言葉を作られたのは、室町時代であり、今から600年前に発せられたのです。
武家社会で、庶民の暮らしは、決して豊かではなかった。その日をくらすには難しかった。餓死するものが
おられ、人が亡くなっても葬式すら、されることなく、土地に埋めるのがせいいっぱいではなかったと創造します。其れが徳川の時代になって、先祖供養というしきたりができて、先祖様を大切にする教えが導きだされたのです。
 現代では、人は何れは仏様に生まれ変わり、後世の人々を守り続けると言うふうになったのです。先祖供養の大切さを高僧が導き出されて、葬式、年忌法要の大切さ、人コを具えられる様に努力する生き方がよいとされたのです。
いかに仏の教えを聞き、実践することが幸せなる生き方になることをお坊さんが説くようになったのです。
其れが真盛という人物が、我が宗派を作るご縁を導きだされたのだと思います。
毎朝、阿弥陀様の前で、法華経を唱え、念仏を唱えて、人々の先祖代々の諸霊位を唱え、人々の安寧を祈り続けています。その利益にお出会いされることを願っています。
posted by 玉泉寺 at 08:57| 日記

2019年10月21日

大蔵経会法要成満する

天台真盛宗として、最大の法要であり、湖西で半世紀以上続けられている法要「大蔵経会」が新旭太田地区の西方寺で盛大に執り行われました。
 この法要は、檀家衆と僧侶が心一つになって、先徳の菩提に弔い、これから生きる人々の安寧を祈るものです。此の世の生きづらさを払い、何とか命の終わるまで、心安らかにくらすことができる智慧を学び、人々の喜びを感じてもらえるにするのが、法要の目的でです。
 ありがたい読経、ありがたい法話、そして人々の笑顔これらが感じられる伝統の法要です。
 大蔵経は、中国で作られた書物で、百巻以上が高島に存在して、18ヵ寺が連番で転読をしています。
 その1冊を観てみると、阿弥陀三像が描かれていて、漢文で仏の教えが印刷されています、大変ありがたい書物です。是れを十八ヵ寺の檀家衆 850名が守り続けています。大変ありがたいです。

来年は、安曇川町下小川真迎寺で開催します。人々のご縁を結んでいただけるようお願いします。
posted by 玉泉寺 at 08:10| 日記

2019年10月17日

悪い事することなかれ

未だになくならないオレオレ詐欺事件、凶悪な殺人事件など。他人に迷惑かかる事象が絶えることがない。その原因をいろいろかんがえらましょうが、道徳心の希薄になってきているということは、多くの方が感じておられるのではにでしょうか。そこで佛教道徳について考えてみます。
法句経の中に
ありとあらゆる  悪をなあさず 善きことは 身をもって行い おのれの心を きよめんこそ 
諸仏のみおしえなり
また、漢訳されたものに
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意  是諸佛教
とあります。この偈文は七仏通戒偈といわれ。釈尊以前にあらわれたとされる六人の仏達が示された言葉です。今日広く唱えられています。
 中国の詩人の白楽天が、山林の木の上で、仙人のような生活をしている禅林禅師を訪ねた。
その禅林禅師に「佛教の根本の教えは何かと質問したら、即座に諸悪莫作、衆善奉行(悪いことすることなかれ、善いことをせよ)と答えられた。
 あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて、そんなことは三歳の子どもでも知っている事ではありませんか。馬鹿にしないでください。と反発したところ、三歳の子どもでもいうことはできるで有ろうが、八十歳の老人でさえ行うことは難しいと答えた。
 つまり、あたりまえのことが、三歳の子どもが言うことができるが、老人に行わせてもできないことになる。人間というのは、よいか悪いかは別にして、都合のよいことはしてしまうのです。他人を傷つけたことは、結果であって、あとで後悔して懺悔するのです。その懺悔の心がないのが道徳心が欠けている事になるのではないでしょうか。子どもの時のしつけが大事なので、甘やかして育つ子どもには、善悪の判断がつきにくくしているような気がします。便利で豊かな暮らしをしている社会では、道徳心を身につけるのは至難のわざではないでしょうか。
posted by 玉泉寺 at 07:06| 日記

2019年10月12日

少欲から大欲へ

 生きる球の佛教で有らねばならない。何かしら、死んでからの仏教に扱われていないでしょうか。本来あるべき佛教は、何なるかを知っていただきたい。
 お釈迦様は、生きるための教えを説いたのです。その中に、生老病死の四苦と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の八苦の有ることに悟られたのです。でも苦しみというのは、なくなるものではなく、取り除くことができない。苦しみといかに向き合うかで有ります。生きるとと言うことは、苦しみから解放されないのである。
 今私は、思い通りにならないことは、大きな苦しみです。どうしたら思い通りなるかを考えなければならない。是れは自分だけのことで悩んでいる過ぎないのである。
自分だけが良いとする少欲とみんなの幸せを願う大欲の二つがあります。
 たとえば、森に入っていくと大きな木と雑草があります。雑草は、自分の欲望です。欲望は、満たしても満たしてもどんどん増えて行きます。雑草をとってもまた生える。大きな木は、養分を吸い取り、みんなからの支えがあるから、自然の恵みをいただいて大きな木になる。
 ある老人が、一休和尚のところ行って祈祷して欲しいyという、何の祈祷ですか。私を20年延命させて欲しいというと、一休さんは、20年でいいのですか。すると老人は30年といい、ほんとにそれだけでいいのですかと答えられたそうです。一休さんの心は、なぜ、永遠に生きたいと願わないですか。
その老人は、自分のことしか考えていなかったのです。
アメリカファースト、都民ファーストと言うことが出ていますが、是れは、自分だけのことです。それよりも、人の幸せを考えるかであります。世界が平和になれば、自分の幸せに恵まれてくるのです。
悩みというのは小さいものです。是れが少欲から大欲の境地です。自分に固守するから、苦しみに遭うのだと思います。


posted by 玉泉寺 at 15:37| 日記

2019年10月10日

「放逸著五欲 堕於悪道中」 法華経の中にあります

 この言葉の現代語訳は「おごり高ぶる勝手な心をおこし、勝手気ままに五官の欲望にとらわれ、悪道に落ちこんでしまうであろう』と言う意味です。
 まさに、人間というものは欲に溺れ、おごり高ぶる心で、身を滅ぼしてしまうとお釈迦様は説いています。常に謙虚で、人の意見に傾けなければ、独裁者ととなり、何れは滅ぼされてしまうという戒めの言葉です。
  
お釈迦様は我々の父親であると述べられています。だとすると我々は皆、兄弟姉妹です。お互い助け合って生きていけたら最高です。
 お釈迦様は「いつもそばにいると私を頼ってしまって、かえって勝手気ままな生活を送り、悪道に落ちてしまうだろう。だから入滅(亡くなった)といって隠れるのだよ。」と言われています。父が亡くなり全ての責任が自分にかかってきた私はこのお経文を読むたびにハッとします。
 お釈迦様は「一生懸命修行する人とそうでない人がいることをよく分かっている。だからその人に応じた教えを説くのです。」と言われています。

 お釈迦様は今でも常に我々を導こうと考え、手を尽くされています。ですので私は厳しい状況になったとき、これはお釈迦様が私を導くために与えた試練なのだと考えるようにしています。 


 
posted by 玉泉寺 at 08:09| 日記

2019年10月08日

当たり前の暮らしは幸せである

当たり前に暮らせるのは、幸せのことだろうか
衣食住すべてがそろっていることはありがたいことです。
その昔、住む家がなく、野宿しなければならないとか、飢えに困って、人のものを盗まないと生きて行けないとか、着るものはないとかこのような生き方は、誰も想像できないでしょう。今では、最低生活が保障されていて、当たり前に暮らせる。これを幸せといっている。ところがどうでしょう、不平不満が出てくる、愚痴が出てきて、より豊かな暮らしをしようとする。し合せの暮らしは、余計に苦しくなる。その苦しみから逃れるために、人と争ったり、人に迷惑行為をする。
 釈尊の教えに、人のものを取らない、他の命を奪わない、うそをつかないと言う戒律がある。
人としてこの教えを守ることができれば、これこそ幸せに暮らせるのです。
 人を殺さない、うそをつかない、人のものを取らないということを唱え続ければ、きっとそうなると信じています。だけど魔がさすことがあるので、其の心を抑えるため、唱え続けなければならない。
もその心がおこったら、般若心経を唱えましょう
posted by 玉泉寺 at 18:02| 日記

2019年10月05日

四十八体石仏の木炭画の作品展の鑑賞

本日、安曇川町内の藤之井ギャラリーで、平川先生の鵜川四十八体石仏の木炭画展が行われています。
私もいきましたら、石仏一体ずつ特色をとらえて。まるで極楽世界にいるようでした。私の亡くなった母の顔に出会ったきがしました、
 一度、ごらんになりのいってみませんか
posted by 玉泉寺 at 12:12| 日記