2020年10月20日

念仏のこころ

秋風が吹き渡り、こころ穏やかになりつつ、身の冷たさを感じるころになりました。
死にそうな暑さから解き放たれた気がします。そんななか、秋の静けさのなかに、念仏を教えにしたしみませんか。
法然上人は、念仏を唱えることで、こころの静けさを感じ、毎日念仏を唱えることを勧められてこられました。そして開祖真盛上人も、念仏には、こころ清められることを後世に伝えてこれられました。
    かかるめでたき念仏を、浮き世のよそに見る人は、たからの山に入れながら、
                            手をむなしうしてかえるがごとし
念仏というのは、大変ありがたいものであって、せっかく宝の山にあるにもかかわらず、念仏を唱えないものは不幸なことであるというと意味と有ります。念仏が、くるしみ迷う世界にいきていいる凡人にとって、すくわれるものであることを説いておられる。
 有る女性のかたで、容姿が悪く、いいたいここともいえず、相手から言われるままになって、反論もできない。そんな日々を暮らしていて、もう死にたいといつも、電話の向こうから話されてきます。私がこの世に生きていることのつらさを私にぶつけてこられます。返事に苦慮しています。リストカットも何度もされています。
その方は、真言二は詳しく知っておられて、縁切りの仏様の真言を教えてくださいと言われますので、教えて差し上げますと、何度も唱えたり,写経したりして、こころの穏やかさを求めて,今も元気に過ごされています。
救いを求めて仏様を名を唱えることが念仏であり、一心不乱に唱えれば、身のすがすがしさを感じて、今日の生きる喜びが満ちてくることが宝のやまではないでしょうか
posted by 玉泉寺 at 09:34| 日記

2020年10月12日

念念従心起

太陽の光が、世の中を明るくします。世界には、夜明けのないところが有ります。私たち人生もそうであります。暗闇ばかりでいっこうにひかりがさすことがないときがあります。これが煩悩というものです。煩悩は、迷い、苦しみに迫られて、いのちを落としてしまうことがあります。そんなときが、誰かに寄り添ってほしいというこころが沸いてきます。だけど、人間は一人、孤独になりがちです。
そんなときに、お釈迦様は、苦しみから逃れる方法を見いだしたのです。其れが仏教なのです。いわゆる仏様の教えです。その教えは、幾千万の教えを、私たちの先人が書き表したのがお経なのです。
お経は意味がわからず、聞いていても退屈なものです。
 標記の言葉もお経の一節です。観音経の一節です。
 ただただ、観音様という仏さまを念ずれば、仏の教えを起こし、従えば、苦しみからのがれるこころから解き放たれて、すくわれるであろうということです。
観音様の慈しみは、苦を取り除いて、生きる勇気を与えてくれるのです。だから、一心になって南無観世音菩薩を称名して下さい。何遍も何遍も念じつづければ、良い縁となり、すくわれるのです。
 念ずるこころをに観音様が現れて、観音さまは、わたしから離れることはありません。
 そのとき、その姿(自分)が観音さまとなり、今まで険しかった顔が優しいお顔になり、人を救ってくれるのです。
posted by 玉泉寺 at 10:12| 日記

2020年10月06日

無垢清浄の光

表記の言葉は、観音経に記されています。
悲痛の叫びの原因は、苦しみから出てきます。其れはこのよに生まれて、様々な苦しみに遭うからです、
悪しき境界の地獄、餓鬼、畜生の三悪道と生老病死の苦しみから逃れるには、真実なる観察と清らかに見る観察そして正しく見る智慧を持つことである。またお釈迦様はあわれみの眼と他人を慈しむ心を育むことであると説かれています。そのことが、多くの闇を破り、災難の風火を消して、くまなく社会を照らすことできるのです。
慈しむ心は、大雲のように不死の妙薬である教えの雨を注ぎ、煩悩の炎を沈める。訴えて役所を陥れたり、戦陣において恐怖を覚えた時に、彼の観音の力をこころに念ずれば、たちまちに多くの怨敵はすべて退散するであろう。妙なる音声をもつ観音さんは清らか声、海の潮の音が聞こえてきます。それ故につねにこころに念ずることが大切である。
 そうして、疑いのこころを生じてはならない。
 清らかな聖の観音様は苦悩と死のわざわいにおいて、よりどころになります。
 あらゆる功徳を供えて、慈しみの眼を持って人々を見て下さい。福徳集まる海は計り知れない。
 そのときに持地菩薩は座から立って仏の前に出て次の言葉を言いました
世尊よ。観音菩薩はあらゆる方面にあらわれて、神通力を聞くことができたならば、この人の功徳は決して少なくない。集まった84,000人の人々に無上の正しい悟りのこころを起こすことでしょう。
posted by 玉泉寺 at 08:08| 日記

2020年09月29日

世は皆無常なり

 会うものはいずれは必ず離れて行く・色はにおえどちりぬるをわがたれど常ならぬ。有為の奥山今日超えて浅き夢をみじ、よひもせずと涅槃経に説かれています。お釈迦様は、2500年の昔、悟られたのです。えらいもんですね。今、私たち凡夫には、悟ることができましょうか。欲を追い求め、良い暮らしを目指し、ものが家の中にあふれて、夜、我が家に帰ってきても、寝るだけで、昼間が、会社で仕事をして、ものを大切にする心が失われてきています。ほんとにこれで良いのでしょうか。人間も、このよに生まれ、次第に年を取り、そしてこのよを去らねばなりません。
僧侶としての生き方で、いのちを終えたら、すべて記憶から削除していいのでしょうか。そのなくなれられたをいかに偲び、その人の功績を後世に引き継いでもらえる様にするべきではなかろうか。
そこに、お別れをする意味があると考えます。そのことを説くために告別式を行うものだと考えます。
今の葬式は、機械的におこなわれていることにさびしさを感じます。もっと、死者の声を代弁して、残された家族に伝えていくこだと思います。其れが、いのちのバトンタッチだと信じています。
先にも述べたとおり、会う者すべてはなれ、なくなるのです。それだから もののいのち、人の命の大切をとかずして、宗教活動といえるのでしょうか。
 相手を思う気持ち、ものを慈しむ心をとかなければ、心の安定はありはしない。
 私ども、縁あってお寺で生まれ、家が古いからといって、建て替えることを考えていることに恥ずかしいで
す。古い庫裏であるけれども、慈しむ心を持たなければ、法を説くことができないと考えます。
 私は、多くの方とであい、縁を結ぶことで、人々に幸せな暮らしに導いて生けることをモットにこれから僧侶として生きて行きます。良かったら玉泉寺にきておしゃべりしましょう

posted by 玉泉寺 at 17:17| 日記

2020年09月24日

念仏の御利益

私たちは、念仏を唱える習慣を先祖より教えて頂きました。
人はみな、西方浄土にあこがれています。阿弥陀仏を念じ、毎日7万万回をとなえ、礼拝供養に励まれていきています。常に、広く多くの人々に勧めて念仏の行に励み、観無量誦経を読むこと2百余回、また念仏の数を数えるのに小豆を使用して、7万回を唱えてきたところから、禪師がもくろじの実をつないで数珠を造ったとされています。要は念珠は、百八戸個の2倍、3倍、10倍にして、数珠を繰りながら念仏に励まれたことから、始まったのです。
西方に向かってつばを吐いたり、大小便をしたりすることを禁じられた。たまたま邪見の心を持った人が,この教えに反抗して、その禁則を破ろうとしたが、禪師はその崇高なお姿に遇い、自ら温順な心となり、徳行に服された。
汝が往生をする道場は,すでに西方浄土に完成しているが、汝の生命は尽きず、今しばらく現世にあって人々の教化に尽くすべきである。とおしゃられて、天空の空から七色の花が降り注ぎ、これを仰ぎ見た多くの人々は奇異の思いに感動されたとされています。
そのときから、一心不乱に念仏をとなえられたと観無量寿経に説かれたところから、習慣にされたのです。
posted by 玉泉寺 at 10:04| 日記

2020年09月23日

近くして見難きは我が心

自分というのは、かわいいもの。絶対に自分を守ろうとします。また、自分の欠点を隠して、他人によく見せようとします。
修行ををしている僧侶は、自分に向き合い、悪いところを修正して、法を説いていくのである。ところがどうでしょう、僧侶も人間であることは間違いない。時には打算的になって、都合の悪いところを隠して、生き延びていく。そうすると、法はねじ曲げられて、正しいことが伝わって行かない。
善導大師は、二河白道で絵解きされているように人は皆、西の浄土に向かって行くのです。その道中には、火買の海あり、水の海ありで、さまよい歩いて居るのです。時には怒り、また時には愛欲にふけるのです。そうすると、西の浄土にたどり着くまでに死に絶えて行くのです。これでは非常に悲しい。そこに僧侶は道案内人を役があって、人々は迷わずに、浄土にたどり着けるようにするのです。
つまり、目先のことばかり気にしているから、迷うのであり、もう少し、先を見通して行くことが大事なことであると私は思います。其れが心静かに、一生が送れるのではないでしょうか。
posted by 玉泉寺 at 08:29| 日記

2020年09月15日

宝の山にいりながら手をむなしゅうして帰る

この言葉は、真盛上人が室町時代に説かれたことばです。仏の教えを聞かぬものは、もったない。その当時、庶民の暮らしは、貧しく、なんとか一旗揚げたい。なんとか、なりあがって、良い暮らしがしたい。弱肉強食というか、弱いものは他人に支配され、強いものは、他人を支配したい。欲望の渦巻く社会でした。
真盛上人は、比叡山を下りて、西教寺に入寺されて、世の中の人々を救いたいという境地に至られて、伊勢、伊賀、近江、そして越前を歩かれました。その歩かれたところで、教化され、多くの信者さんをつくられたのです。其れが現在の天台真盛宗であります。
 世の中が荒れているなかで、真盛上人は救世主だったと考えます。
 仏の教えこそが、幸せな暮らしができるものと文章に残されたのが、念仏三昧法語であります。表題の文章は、その一文であります。
 念仏というありがたい修行を耳をすれども、忙しさにかまけて、実践しないのはもったないです。念仏をすれば、必ず、心が安らかになり、すくわれるのだ。
 その当時の人々は、いくさの明け暮れ、権力闘争して、いのちを落とすのは、悲しい。そういう暮らしより、念仏を唱える暮らしをする方が、豊かな暮らしができる。
 だから真盛上人は、宝の山にいりながら、なにもしないのはもったいない。せっかく宝を落ちているのに拾わないのは、惜しい。
 現在のくらしのなかでもいえる。上ばかり目指し過ぎて、自分を見失い、地獄に落ちるのは悲しいですよ。せっかくこの世に生まれているのだから、幸せに生きようと、真盛上人は説いているのです。
posted by 玉泉寺 at 11:13| 日記