2019年11月14日

此の世は地獄であるといたのが、一千二百前に活躍した惠心僧都であった

惠心僧都が、農業の家にうまれた子どもは、偉い僧侶になったのです。ときは今から1200年前の事でした。
天慶5年(942年)、大和国北葛城郡当麻[2]に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正親、母は清原氏。
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。 そして往生要集を編纂されて、宗祖真盛上人の宗派を確立されて、現在では天台真盛宗として弘められています。その往生要集には、地獄の世界を絵と物語で綴られています。
 悪行を止め、善行を修めること、止悪修善と言う言葉を発せられたのです。
更に法然上人は、廃悪修善これ諸仏の通戒なりといえども、その時に生きた人々に戒められて、往生かなわじと申されたのです。
人々が罪悪を問題視するために、悪を止め、善をすすめる仏法に帰依して、戒律を守るくらしをすることが救われることだと教え諭してくれているのです。
posted by 玉泉寺 at 14:10| 日記