2020年10月24日

毒蛇にきをつけよ(お釈迦さまのエピソード)

お釈迦様が、弟子の阿難と托鉢修行をしていた。
その道々で「そこに、毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」
「ハイ、心得ております」
驚いた男は、”毒蛇”の所在を確かめようと、道路のほうへ回って、恐る恐るのぞいてみました。
“はて、ところで毒蛇はどこだ?”。と探しに道へ出ると、近くの大木の根元に、まばゆい金銀財宝が顔を出しているではありませんか。
「これが毒蛇……?昔、だれかが埋め隠したのが、大雨で洗い出されたに違いない。こんな宝を毒蛇と間違うとは、釈迦も、まぬけやろうだ」
“一生働いても手にできないほどの財宝、逃す手はない”。目の前に横たわる宝物に心奪われた男は、早速、掘り返し、持ち帰る。
男の生活は、たちまち華美になり、豪奢な家や家財、贅を尽くした食事、振る舞い。近隣から不審の立たぬはずはなく、うわさは大風にあおられた火事のように広がり、ついに王の耳にも入りました。
法廷に呼び出され、厳しい詮議に音を上げた彼は、すべてを白状しました。
「かかる大枚の財宝を横領するとは、許せぬ大罪。死刑に処するが、三日間の猶予を与える」
激怒した王から言い渡された罪状を、帰宅した男は家族に告げた。
「ああ、ブッダ・シャカムニはやはり偉かった。あれは間違いなく毒蛇だった。オレがかみ殺されるだけでなく、家族にまで毒がまわり、大変なことになった。家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。財宝が、かえって身を責める道具になった」
“毒蛇”の深意が身にしみた男は、心から懺悔した。豪邸も財物もごちそうも、一切が喜べなくなり、ただ、家族と嘆き悲しむのみだった。
人間には五欲はあります。食欲、財欲、名誉欲と利益欲、睡眠欲のこと。これを欲張りといいます。
欲張ると我が身を滅ぼすという教訓です。お釈迦さまは、小欲知足という言葉でもって、戒められたのです

posted by 玉泉寺 at 07:51| 日記

2020年10月20日

念仏のこころ

秋風が吹き渡り、こころ穏やかになりつつ、身の冷たさを感じるころになりました。
死にそうな暑さから解き放たれた気がします。そんななか、秋の静けさのなかに、念仏を教えにしたしみませんか。
法然上人は、念仏を唱えることで、こころの静けさを感じ、毎日念仏を唱えることを勧められてこられました。そして開祖真盛上人も、念仏には、こころ清められることを後世に伝えてこれられました。
    かかるめでたき念仏を、浮き世のよそに見る人は、たからの山に入れながら、
                            手をむなしうしてかえるがごとし
念仏というのは、大変ありがたいものであって、せっかく宝の山にあるにもかかわらず、念仏を唱えないものは不幸なことであるというと意味と有ります。念仏が、くるしみ迷う世界にいきていいる凡人にとって、すくわれるものであることを説いておられる。
 有る女性のかたで、容姿が悪く、いいたいここともいえず、相手から言われるままになって、反論もできない。そんな日々を暮らしていて、もう死にたいといつも、電話の向こうから話されてきます。私がこの世に生きていることのつらさを私にぶつけてこられます。返事に苦慮しています。リストカットも何度もされています。
その方は、真言二は詳しく知っておられて、縁切りの仏様の真言を教えてくださいと言われますので、教えて差し上げますと、何度も唱えたり,写経したりして、こころの穏やかさを求めて,今も元気に過ごされています。
救いを求めて仏様を名を唱えることが念仏であり、一心不乱に唱えれば、身のすがすがしさを感じて、今日の生きる喜びが満ちてくることが宝のやまではないでしょうか
posted by 玉泉寺 at 09:34| 日記

2020年10月12日

念念従心起

太陽の光が、世の中を明るくします。世界には、夜明けのないところが有ります。私たち人生もそうであります。暗闇ばかりでいっこうにひかりがさすことがないときがあります。これが煩悩というものです。煩悩は、迷い、苦しみに迫られて、いのちを落としてしまうことがあります。そんなときが、誰かに寄り添ってほしいというこころが沸いてきます。だけど、人間は一人、孤独になりがちです。
そんなときに、お釈迦様は、苦しみから逃れる方法を見いだしたのです。其れが仏教なのです。いわゆる仏様の教えです。その教えは、幾千万の教えを、私たちの先人が書き表したのがお経なのです。
お経は意味がわからず、聞いていても退屈なものです。
 標記の言葉もお経の一節です。観音経の一節です。
 ただただ、観音様という仏さまを念ずれば、仏の教えを起こし、従えば、苦しみからのがれるこころから解き放たれて、すくわれるであろうということです。
観音様の慈しみは、苦を取り除いて、生きる勇気を与えてくれるのです。だから、一心になって南無観世音菩薩を称名して下さい。何遍も何遍も念じつづければ、良い縁となり、すくわれるのです。
 念ずるこころをに観音様が現れて、観音さまは、わたしから離れることはありません。
 そのとき、その姿(自分)が観音さまとなり、今まで険しかった顔が優しいお顔になり、人を救ってくれるのです。
posted by 玉泉寺 at 10:12| 日記

2020年10月06日

無垢清浄の光

表記の言葉は、観音経に記されています。
悲痛の叫びの原因は、苦しみから出てきます。其れはこのよに生まれて、様々な苦しみに遭うからです、
悪しき境界の地獄、餓鬼、畜生の三悪道と生老病死の苦しみから逃れるには、真実なる観察と清らかに見る観察そして正しく見る智慧を持つことである。またお釈迦様はあわれみの眼と他人を慈しむ心を育むことであると説かれています。そのことが、多くの闇を破り、災難の風火を消して、くまなく社会を照らすことできるのです。
慈しむ心は、大雲のように不死の妙薬である教えの雨を注ぎ、煩悩の炎を沈める。訴えて役所を陥れたり、戦陣において恐怖を覚えた時に、彼の観音の力をこころに念ずれば、たちまちに多くの怨敵はすべて退散するであろう。妙なる音声をもつ観音さんは清らか声、海の潮の音が聞こえてきます。それ故につねにこころに念ずることが大切である。
 そうして、疑いのこころを生じてはならない。
 清らかな聖の観音様は苦悩と死のわざわいにおいて、よりどころになります。
 あらゆる功徳を供えて、慈しみの眼を持って人々を見て下さい。福徳集まる海は計り知れない。
 そのときに持地菩薩は座から立って仏の前に出て次の言葉を言いました
世尊よ。観音菩薩はあらゆる方面にあらわれて、神通力を聞くことができたならば、この人の功徳は決して少なくない。集まった84,000人の人々に無上の正しい悟りのこころを起こすことでしょう。
posted by 玉泉寺 at 08:08| 日記