2020年09月29日

世は皆無常なり

 会うものはいずれは必ず離れて行く・色はにおえどちりぬるをわがたれど常ならぬ。有為の奥山今日超えて浅き夢をみじ、よひもせずと涅槃経に説かれています。お釈迦様は、2500年の昔、悟られたのです。えらいもんですね。今、私たち凡夫には、悟ることができましょうか。欲を追い求め、良い暮らしを目指し、ものが家の中にあふれて、夜、我が家に帰ってきても、寝るだけで、昼間が、会社で仕事をして、ものを大切にする心が失われてきています。ほんとにこれで良いのでしょうか。人間も、このよに生まれ、次第に年を取り、そしてこのよを去らねばなりません。
僧侶としての生き方で、いのちを終えたら、すべて記憶から削除していいのでしょうか。そのなくなれられたをいかに偲び、その人の功績を後世に引き継いでもらえる様にするべきではなかろうか。
そこに、お別れをする意味があると考えます。そのことを説くために告別式を行うものだと考えます。
今の葬式は、機械的におこなわれていることにさびしさを感じます。もっと、死者の声を代弁して、残された家族に伝えていくこだと思います。其れが、いのちのバトンタッチだと信じています。
先にも述べたとおり、会う者すべてはなれ、なくなるのです。それだから もののいのち、人の命の大切をとかずして、宗教活動といえるのでしょうか。
 相手を思う気持ち、ものを慈しむ心をとかなければ、心の安定はありはしない。
 私ども、縁あってお寺で生まれ、家が古いからといって、建て替えることを考えていることに恥ずかしいで
す。古い庫裏であるけれども、慈しむ心を持たなければ、法を説くことができないと考えます。
 私は、多くの方とであい、縁を結ぶことで、人々に幸せな暮らしに導いて生けることをモットにこれから僧侶として生きて行きます。良かったら玉泉寺にきておしゃべりしましょう

posted by 玉泉寺 at 17:17| 日記

2020年09月24日

念仏の御利益

私たちは、念仏を唱える習慣を先祖より教えて頂きました。
人はみな、西方浄土にあこがれています。阿弥陀仏を念じ、毎日7万万回をとなえ、礼拝供養に励まれていきています。常に、広く多くの人々に勧めて念仏の行に励み、観無量誦経を読むこと2百余回、また念仏の数を数えるのに小豆を使用して、7万回を唱えてきたところから、禪師がもくろじの実をつないで数珠を造ったとされています。要は念珠は、百八戸個の2倍、3倍、10倍にして、数珠を繰りながら念仏に励まれたことから、始まったのです。
西方に向かってつばを吐いたり、大小便をしたりすることを禁じられた。たまたま邪見の心を持った人が,この教えに反抗して、その禁則を破ろうとしたが、禪師はその崇高なお姿に遇い、自ら温順な心となり、徳行に服された。
汝が往生をする道場は,すでに西方浄土に完成しているが、汝の生命は尽きず、今しばらく現世にあって人々の教化に尽くすべきである。とおしゃられて、天空の空から七色の花が降り注ぎ、これを仰ぎ見た多くの人々は奇異の思いに感動されたとされています。
そのときから、一心不乱に念仏をとなえられたと観無量寿経に説かれたところから、習慣にされたのです。
posted by 玉泉寺 at 10:04| 日記

2020年09月23日

近くして見難きは我が心

自分というのは、かわいいもの。絶対に自分を守ろうとします。また、自分の欠点を隠して、他人によく見せようとします。
修行ををしている僧侶は、自分に向き合い、悪いところを修正して、法を説いていくのである。ところがどうでしょう、僧侶も人間であることは間違いない。時には打算的になって、都合の悪いところを隠して、生き延びていく。そうすると、法はねじ曲げられて、正しいことが伝わって行かない。
善導大師は、二河白道で絵解きされているように人は皆、西の浄土に向かって行くのです。その道中には、火買の海あり、水の海ありで、さまよい歩いて居るのです。時には怒り、また時には愛欲にふけるのです。そうすると、西の浄土にたどり着くまでに死に絶えて行くのです。これでは非常に悲しい。そこに僧侶は道案内人を役があって、人々は迷わずに、浄土にたどり着けるようにするのです。
つまり、目先のことばかり気にしているから、迷うのであり、もう少し、先を見通して行くことが大事なことであると私は思います。其れが心静かに、一生が送れるのではないでしょうか。
posted by 玉泉寺 at 08:29| 日記

2020年09月15日

宝の山にいりながら手をむなしゅうして帰る

この言葉は、真盛上人が室町時代に説かれたことばです。仏の教えを聞かぬものは、もったない。その当時、庶民の暮らしは、貧しく、なんとか一旗揚げたい。なんとか、なりあがって、良い暮らしがしたい。弱肉強食というか、弱いものは他人に支配され、強いものは、他人を支配したい。欲望の渦巻く社会でした。
真盛上人は、比叡山を下りて、西教寺に入寺されて、世の中の人々を救いたいという境地に至られて、伊勢、伊賀、近江、そして越前を歩かれました。その歩かれたところで、教化され、多くの信者さんをつくられたのです。其れが現在の天台真盛宗であります。
 世の中が荒れているなかで、真盛上人は救世主だったと考えます。
 仏の教えこそが、幸せな暮らしができるものと文章に残されたのが、念仏三昧法語であります。表題の文章は、その一文であります。
 念仏というありがたい修行を耳をすれども、忙しさにかまけて、実践しないのはもったないです。念仏をすれば、必ず、心が安らかになり、すくわれるのだ。
 その当時の人々は、いくさの明け暮れ、権力闘争して、いのちを落とすのは、悲しい。そういう暮らしより、念仏を唱える暮らしをする方が、豊かな暮らしができる。
 だから真盛上人は、宝の山にいりながら、なにもしないのはもったいない。せっかく宝を落ちているのに拾わないのは、惜しい。
 現在のくらしのなかでもいえる。上ばかり目指し過ぎて、自分を見失い、地獄に落ちるのは悲しいですよ。せっかくこの世に生まれているのだから、幸せに生きようと、真盛上人は説いているのです。
posted by 玉泉寺 at 11:13| 日記

2020年09月06日

ほしがり。よくばりをやめると、心がらくになるよ

「これほしい」という欲張りな心でいると、どんどんエスカレートしてしまう。そしてなにをてにいれても「もっとほしい」という心が沸いてきます。そうなると心が苦しくなり、犯罪を起こしてしまう。
人間、我慢するという心が大切です。
昔、勝つまではほしがりませんという言葉がはやりました。そして私も、幼少の頃、お金がなかったせいか、欲しいものを求めたことがなかったです。其れが、布施の心を持つようになりました。ひとの喜ぶことをして、生きていくことです。なんだっていいです。食べられたらいいです。服が着れたらいいです。移動ができたらいいです。そんな心でいると心はらくになります。
posted by 玉泉寺 at 09:25| 日記