2020年02月24日

健康とは、心の健康を保つこと

 健康とは心・体を健全に保ち、どんな時も友だちに誠実に接することであります。
 心と体をつねに健康な状態にしておくことは、人生を精一杯楽しむためにもっとも重要なことです。また、「富」とは金銭的な意味で考えられがちですが、それが、本当に意味するものとは、強欲にならず平穏な心を持つこと。そして真の友情関係とは、自分と相手に誠実でいることなのです。
お金を所有することが生きがいではない。健康こそ、人として生きるための宝なのです。欲しがらない心がもっとも穏やかにくらす。それが、寿命をいただけるのです
posted by 玉泉寺 at 14:31| 日記

2020年02月19日

涅槃会とは

涅槃は、釈迦が悟りの境地に達して死んだことから、迷いで燃え盛る火が消え、悟りに入った境地という意味になったといいます。

涅槃は釈迦の死を表す言葉でもあります。陰暦の2月15日が釈迦入滅の日とされています。沙羅双樹のもとで涅槃に入る様子は、涅槃経に記されていて、涅槃経に基づいて描かれた釈迦涅槃図も残っています。

釈迦涅槃図では、頭を北に向け、右わきを下にして横たわる釈迦が描かれています。故人を北枕で寝かせるのは、釈迦の涅槃入りからきたものとも言われています。
いわゆる涅槃会とはお釈迦様の命日であり、法事です。わたしたちが、先祖供養をするのに、大切な法要です。 お釈迦様の遺徳を偲び、教えを学ぶ、これからの人生を改めるのが、法事です。
当山では、3月15日日曜日午後二時、玉泉寺でいたしますので、お参りください。色とりどりのだんごをまきます。だんごは無病息災の御利益が得られます。
posted by 玉泉寺 at 07:18| 日記

2020年02月14日

人は迷惑をかけて生きている。だから感謝の心を持つ。

人は、依存して生きている。「自分はありのままで愛される価値がある、と信じている」ということだったと言います。これは、人間も含め、生きとし生けるもの皆にとって、自分自身が最も尊い存在だと説いた釈尊の「天上天下唯我独尊」の教えです。
天上天下唯我独尊とは、どのような存在も、この世に生まれた瞬間に、かけがえのない命であるということを認めることだと思います。立場や能力や家柄など、すべて関係なく、尊い命だということを認め合うことだと思うのです。この大前提が抜け落ちてしまうことで、様々な問題が起きてしまうのではないでしょうか。
 子どもの虐待で、食事を与えず、冷水を浴びせるなどして死に至らしめた事象が後を絶たない。恐怖心を想像するだけで、言葉を失います。ニュースでは、そのような命の危険があるにも関わらず、放置する環境に疑問を持つ。
 子どもは親の所有物ではありません。親であれば我が子に対して「このように育ってほしい。」と思うのは当たり前です。しかし、この思いが、いつしか子どもを「自分の思い通りにしたい。」という思いに変化してしまう危険性が誰しもあるのではないかと思います。「こうでなければいけない。」という思いが強ければ強いほど、その危険性は高まります。理想を高く持っている人ほど、失敗を許せないこだわりの心が強くなり、執着心を生み、それが自分を苦しめてしまう原因になることは多いのではないかと思います。
 そうした生きづらさの問題は、こだわりの強さ以外に、もう一つ、自分の弱さを外に出せないことにあると思います。現代は、非常に便利になり、人とかかわらずに暮らしていけるようになりました。インターネットを使えば、一歩も外に出ずに、買い物ができてしまう時代です。この便利さは、煩わしい人間関係を無くしてくれました。お金さえあれば、自分ひとりで生きていけてしまうのです。そのような社会においての「自立」の意味は、「誰にも世話にならずに生きていくこと。」というような意味になっているように感じます。
 此の世に生を受けて、たくさんのひとの迷惑をかけているのだと思っていただきたい。だから人に感謝する気持ちが沸いてくるのでないでしょうか。 
 多くの人の中に、「誰かに助けを求めることは恥ずかしいこと」という潜在意識が存在しているのではないでしょうか。貧しかった時代は、「苦しい時はお互い様」で、皆が互いに支え合いながら生活していたと思います。人と人との繋がりが生きていく力となっていたのです。

現代は、便利さと引き換えに、その繋がりを失い、苦しみや辛さを共有できる存在がおらず、それが社会的孤立を生み、自殺や虐待などの問題の大きな要因になっているように思えてなりません。ある精神科医が、「自立とは依存しないことではなく、依存先を増やしていくことだ。歯を食いしばって、誰にも泣き言を言わずに一人で頑張ることが自立ではない。できるだけサポーターをたくさん作ることこそが本当の自立なんです。そして、最大の自傷行為は何かというと、『助けを求めないこと』なんです。」といっておられます。
 私たち一人一人が、それぞれの弱さを隠すことなく、周りに支えあえる人たちを増やしていく。そうすれば、支える人も支えられる人も、お互いに自分はありのままで愛される価値がある、と信じられ、生き生きと充実した人生につながっていくのではないでしょうか。
posted by 玉泉寺 at 08:53| 日記

2020年02月04日

相互供養のすすめかた

一番の気付きは「相互供養」の大切さ、相い互いに供養し合う、すべてのものと供養し合うことの大切さです。神仏を始め、身近な家族、兄弟、ご先祖様、鳥や虫、木、水、風、石、すべてのものと常に相い互いに供養し合うことです。では、どのようにすることが供養なのでしょうかか。お経を読むこと、真実の教えを伝え、恐怖、悲しみを取り去ること。またそればかりではなく、良い言葉、優しい言葉をかけること、陰口、悪口を言わないこと、よく体を動かすこと、ゴミを捨てないこと、慈しみと深い愛の心を働かすこと。これらもすべてが供養です。もっと分かりやすく言えば、相手を喜ばすこと、相手のことを考えること、お手伝いをすることが供養です。

 良き供養ができれば、世の中を、自分を変えていく事ができます。すべての起こりうる事は何れにせよ「自分の鏡」ですから、悪いことが起きれば反省をし、考え、学ばなければなりません。良きことがあれば、よく喜び、感謝を益々しなければなりません。また、修行をする者はそれだけでなく、神さま仏さまの相互供養の世界を実体験し、味わわなければなりません。
  
 お互いに供養しあう。仏さまの世界というのは、常にお互いがお互いを供養しあっています。それは尽きることの無い供養であり、輝きに満ちた世界です。私たちは気付かないだけで、本来、生きとし生けるものすべては仏と仏の尽きることのない供養の世界に、輝きの世界に身を置いているのです。
これこそが私たちが気付かなければならないこと、知らなければならないことなのでしょう。そして学び、日々の生活、家庭、会社の中などで生かせられれば、なんと素晴らしい気付きと、日々が送れることでしょうか。
仏さまの世界、お互いがしあわせに生かしあう世界を実現していくことが仏教徒の努めであるでしょう。そして大事なこと、私たちは迷い悩む人間であると共に、無限の可能性を秘めている仏の子(大いなる命)であるという事に気付くこと。生きる限り、悩んだり、壁にぶち当たったりするのは当たり前です。しかしながらその悩みや壁が無ければ成長もありません。普段思う、都合の悪いことや問題も実は悪いことではありません。自分が気付き足りていない事を知らせて下さっているだけなのです。
つらい、苦しいと思うこと、大きな壁も感謝して向かって行ける。そんな自分を育んで下さい。でも、なかなかそうは行かない。そんな時に大切なのが家族や兄弟、友人の支え、またお寺のお坊さんの存在です。家族、兄弟は大事にして下さい。友人を大切にして下さい。求め合うものではございません。仏のように、お互いに供養しあう。これこそ、家庭でも学校でも会社でも、夫婦でも恋人でも大切なことです。
 神仏、先祖を敬い、丁重に供養していく。その中に、輝く供養の世界が存在します。地域や家庭などで神事や仏事(お祭りや法事)があれば、どんどん参加していきましょう。神さま仏さまの輝くひかりが、私たちを導いて下さいますから。今日もありがたい。感謝と祈りをしましょう。 
posted by 玉泉寺 at 01:10| 日記

2020年02月01日

独生独死、独去独来

「人間は、生まれてくるのも独り(ひとり)、死ぬのも独り」と言う意味です。
みんな仲良く・共生(共に生きる)・人は一人では生きてはいけない・いのちはつながっている・いのちを大切にして行くこと。
そんなメッセージをよく耳にします。たしかにそうなんだけど、それだけじゃ何かが足りない。
誰とでも仲良くなんかできない。俺は自分の力で生きてきた。こんないのちなんて…。
そういう想いを抱く人もいます。
他者を軽く見て、自分勝手な“自由”を主張して 個を誇る。そんな世の中だから、先のようなメッセージが咲き乱れる。けれどもすぐに色褪せ、枯れてしまう。
ことばが色褪せ、枯れてしまうのは、こころが色褪せ、枯れているからである。
みんなで生きている、ひとりで生きていないのは事実だけど、「みんなで」ということに目が向きすぎている。 「ひとり」が語られるのは、私個人を正当化する場合のみ。個の尊重をいいことに、わがまま放題。
「独生 独死 独去 独来」ということばで言い表されている「独り」って、個々のことでもあり、みんなのことでもある。 独りのことでありながら、みんなのこと。矛盾しているようで、矛盾していない。
「天上天下唯我独尊」ということばもあります。
「天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し」とお釈迦さまは言っています。
お釈迦さまが、私のみ尊いと言ったのではありません。
「生きとし生けるものみんなが、誰とも代わることのできない、ただひとつの尊いいのちを生きている」ということです。このことばも、独りのことでありながら、みんなのことです。
このような「独り」の意識こそが、共に生きるということを意識させ、他を求めるこころを生まれて来るのです。
posted by 玉泉寺 at 10:06| 日記