2019年10月29日

己が煩悩の矢を抜くべし

 己が悲嘆と憂いを除け、己が楽しみ求める人は、己が煩悩の矢を抜くべしとスッパニパーターに説かれています。
 ある人に、交通事故で夫を亡くした奥様が、人はなぜ死ぬのですかと聞かれました。ところが、明確な答えを出せずにいました。
 奥様の質問に対して、これこれこうだから人は死ぬのですよと答えたところで、おそらく納得しないであろう。人は悲嘆に暮れているときに悲嘆の外には出られないものであります。だから答えられないのです。其れが正解であると思います。真実の世界がわかることがないのです。
人は誰しも悲しい時は滅法悲しいのです。泣くときはただ泣くよりほかはありません。その悲鳴がどん底にあるときにはどんなに優れた説法にも、耳を傾けることはないのです。其れが人間というものです。
 しかし、そのままでいいかといえばそうではありません。どこかで立ち上がらないければならないし、同じように他の人が悲嘆に暮れている時こそ、そっとそばにいて寄り添っていって、なにも言えずにいて力になって上げなければならりません。
 共に悲しみを味わった者同士には、会話がなくてもわかり合える世界があります。この時こそが大切であって、一人が学ぼうと言えば他の一人も学びたいという気持ちが湧いてきます。
 泣きっぱなしではおかないぞ、と言うところに別の人間の誕生があるのです。なんの苦しみもない人には、この立ち上がりがありません、悲しみ、苦しんだ人たちが心を一つにして学ぼうと思って立ち上がると別世界が開けてきます。
 だから尊敬さるべき人の教えを聞いて人が死んでなくなったのを観ては、彼はもう私の力の及ばぬ者なのだと悟って歎き悲しみを去れ
 つまり、人の力の及ばぬものを知る事が大事なことであります。其れが煩悩の矢を抜くというのです。
生まれて来る者は必ず死ぬ、寿命は必ず尽きる。形あるものは崩れる。盛んなる者もいつかは衰える。会う者には別れがある。
今を生きることの素晴らしさ、本当の幸せは、この真実を見つめるところからはじまります。
posted by 玉泉寺 at 10:23| 日記

2019年10月22日

頼むところは弥陀兆載劫の願・・・・

この言葉は開祖真盛上人の言葉です。
私たち生きるものすべて、阿弥陀様にお誓いすることが出来れば、仏様の境地に近づき、心安らかになることができる。其れが成仏というものである。
真盛が、この言葉を作られたのは、室町時代であり、今から600年前に発せられたのです。
武家社会で、庶民の暮らしは、決して豊かではなかった。その日をくらすには難しかった。餓死するものが
おられ、人が亡くなっても葬式すら、されることなく、土地に埋めるのがせいいっぱいではなかったと創造します。其れが徳川の時代になって、先祖供養というしきたりができて、先祖様を大切にする教えが導きだされたのです。
 現代では、人は何れは仏様に生まれ変わり、後世の人々を守り続けると言うふうになったのです。先祖供養の大切さを高僧が導き出されて、葬式、年忌法要の大切さ、人コを具えられる様に努力する生き方がよいとされたのです。
いかに仏の教えを聞き、実践することが幸せなる生き方になることをお坊さんが説くようになったのです。
其れが真盛という人物が、我が宗派を作るご縁を導きだされたのだと思います。
毎朝、阿弥陀様の前で、法華経を唱え、念仏を唱えて、人々の先祖代々の諸霊位を唱え、人々の安寧を祈り続けています。その利益にお出会いされることを願っています。
posted by 玉泉寺 at 08:57| 日記

2019年10月21日

大蔵経会法要成満する

天台真盛宗として、最大の法要であり、湖西で半世紀以上続けられている法要「大蔵経会」が新旭太田地区の西方寺で盛大に執り行われました。
 この法要は、檀家衆と僧侶が心一つになって、先徳の菩提に弔い、これから生きる人々の安寧を祈るものです。此の世の生きづらさを払い、何とか命の終わるまで、心安らかにくらすことができる智慧を学び、人々の喜びを感じてもらえるにするのが、法要の目的でです。
 ありがたい読経、ありがたい法話、そして人々の笑顔これらが感じられる伝統の法要です。
 大蔵経は、中国で作られた書物で、百巻以上が高島に存在して、18ヵ寺が連番で転読をしています。
 その1冊を観てみると、阿弥陀三像が描かれていて、漢文で仏の教えが印刷されています、大変ありがたい書物です。是れを十八ヵ寺の檀家衆 850名が守り続けています。大変ありがたいです。

来年は、安曇川町下小川真迎寺で開催します。人々のご縁を結んでいただけるようお願いします。
posted by 玉泉寺 at 08:10| 日記

2019年10月17日

悪い事することなかれ

未だになくならないオレオレ詐欺事件、凶悪な殺人事件など。他人に迷惑かかる事象が絶えることがない。その原因をいろいろかんがえらましょうが、道徳心の希薄になってきているということは、多くの方が感じておられるのではにでしょうか。そこで佛教道徳について考えてみます。
法句経の中に
ありとあらゆる  悪をなあさず 善きことは 身をもって行い おのれの心を きよめんこそ 
諸仏のみおしえなり
また、漢訳されたものに
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意  是諸佛教
とあります。この偈文は七仏通戒偈といわれ。釈尊以前にあらわれたとされる六人の仏達が示された言葉です。今日広く唱えられています。
 中国の詩人の白楽天が、山林の木の上で、仙人のような生活をしている禅林禅師を訪ねた。
その禅林禅師に「佛教の根本の教えは何かと質問したら、即座に諸悪莫作、衆善奉行(悪いことすることなかれ、善いことをせよ)と答えられた。
 あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて、そんなことは三歳の子どもでも知っている事ではありませんか。馬鹿にしないでください。と反発したところ、三歳の子どもでもいうことはできるで有ろうが、八十歳の老人でさえ行うことは難しいと答えた。
 つまり、あたりまえのことが、三歳の子どもが言うことができるが、老人に行わせてもできないことになる。人間というのは、よいか悪いかは別にして、都合のよいことはしてしまうのです。他人を傷つけたことは、結果であって、あとで後悔して懺悔するのです。その懺悔の心がないのが道徳心が欠けている事になるのではないでしょうか。子どもの時のしつけが大事なので、甘やかして育つ子どもには、善悪の判断がつきにくくしているような気がします。便利で豊かな暮らしをしている社会では、道徳心を身につけるのは至難のわざではないでしょうか。
posted by 玉泉寺 at 07:06| 日記

2019年10月12日

少欲から大欲へ

 生きる球の佛教で有らねばならない。何かしら、死んでからの仏教に扱われていないでしょうか。本来あるべき佛教は、何なるかを知っていただきたい。
 お釈迦様は、生きるための教えを説いたのです。その中に、生老病死の四苦と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の八苦の有ることに悟られたのです。でも苦しみというのは、なくなるものではなく、取り除くことができない。苦しみといかに向き合うかで有ります。生きるとと言うことは、苦しみから解放されないのである。
 今私は、思い通りにならないことは、大きな苦しみです。どうしたら思い通りなるかを考えなければならない。是れは自分だけのことで悩んでいる過ぎないのである。
自分だけが良いとする少欲とみんなの幸せを願う大欲の二つがあります。
 たとえば、森に入っていくと大きな木と雑草があります。雑草は、自分の欲望です。欲望は、満たしても満たしてもどんどん増えて行きます。雑草をとってもまた生える。大きな木は、養分を吸い取り、みんなからの支えがあるから、自然の恵みをいただいて大きな木になる。
 ある老人が、一休和尚のところ行って祈祷して欲しいyという、何の祈祷ですか。私を20年延命させて欲しいというと、一休さんは、20年でいいのですか。すると老人は30年といい、ほんとにそれだけでいいのですかと答えられたそうです。一休さんの心は、なぜ、永遠に生きたいと願わないですか。
その老人は、自分のことしか考えていなかったのです。
アメリカファースト、都民ファーストと言うことが出ていますが、是れは、自分だけのことです。それよりも、人の幸せを考えるかであります。世界が平和になれば、自分の幸せに恵まれてくるのです。
悩みというのは小さいものです。是れが少欲から大欲の境地です。自分に固守するから、苦しみに遭うのだと思います。


posted by 玉泉寺 at 15:37| 日記