2019年08月27日

見栄の張り合い

ある人は、成功して,稼いだお金で、三階建て家を建てた。それはもう、人々から評判の家を建てた。そこにライバル意識を燃やしているお金持ちのひとが、同じ三階立ての家を作ってくれと大工の棟梁に依頼された。その大工は、うらやましい三階立ての家を作った大工で、それに負けないような三階立てをつくってくれという。
すると、その大工は、三階立ての家を作る作業を始めた。ところがこのお金持ちの人は、大工を何をしているのKわからない。そうしたら、大工に尋ねた。なにを作っているのか
大工は、これは三階立ての基礎です。土台が出来たら、一階を。一階が出来たら二階を、二階ができたら三階を作ります。
お金持ちの人は、一階や二階が欲しいのではない。先に三階を作れと言うのであった。
佛教には、信者さんがよりどころとする仏法僧を敬うものなのに、まるでそれを敬わずに怠けていて、悟りという成果を欲しがる人がいます。そんな人が修行して、悟りを開くのに四つの段階を上がらないといけないというけど,途中の三つはいらないという。悟りは段階をふんでいかないと得られないと、釈迦は言うのです。
posted by 玉泉寺 at 11:08| 日記

2019年08月26日

無垢清浄なこころ

無垢清浄な心とは、汚れのない清浄な光、智慧の太陽のようなひかりは、此の世の闇を破り、よく風や火の災いを沈めて、幅広く世間を明るく照らすと観音経に説かれています。
お経には、私達の生きる道を示しているのです。
四弘誓願文に、煩悩無尽誓願断と言う言葉がありますように、私たち凡夫には果てしない煩悩をもっていて,誓って此を断つことなのです。たとえば、喫煙者はなかなかたばこを健康に悪いのでやめられない。一端たばこをやめても、煩悩の火がまた燃え上がって、たばこを吸い始めてしまう方をよく見かけます。
観世音菩薩は、多くの神通力を具えているとされています。そのなかでも、漏尽通(ろうじんづう)と言うすぐれた神通力を具えておられます。この漏尽通というのは、いったん消した煩悩の火が二度と燃え上がらないと言う力というのです。この力は、仏道修行して、羅漢以上にならないと具えることが出来ないのです。
この偉大な力を具えた観世音菩薩は、無垢清浄の光を解き放つことができますから、私達の心を覆っている煩悩の闇を取り除き、心安らかにしてくれるのです。
だから、この観音経を声高らかに読み唱えることに功徳が生まれるのです。
posted by 玉泉寺 at 12:23| 日記

2019年08月24日

人と人との争いの火を消して生きて生きましょう

この世は争いが絶えない世の中です。
私たちちは、 互いに優劣をつけたり、奪い合ったりすることに一生懸命になっています。
周りを見ないで、自分のプライドや執着心から取り返しのつかないことが起きています。
しかし、争い事は自分を苦しめ、他を傷つけることで、損ばかりです
争いの火は、ますます大きく燃え上がってしまいます。
長年争っていて、気が付いた時には命が燃え尽きる歳になっているということにもなりかねません。
私達はそんなことのために生きているのでしょうか?
それは見失っていた自分の心の中にある仏性(仏の心)に気付き、人を敬う心を取り戻すことでないかと釈尊は説いています。
これは、右手が仏様、左手は私達衆生で自分を表します。
つまり手を合わせ合掌するということは、仏様と自分が出会い、心が繋がり一つになった姿なのです。
そして、自分の中の仏性に目覚めて、争いの炎を自らが消していければ、どんなにすばらしいことでしょう。
争いの原因は色々あると思いますが、些細なことでも争い続ければ、それが大変な事になってしまうことを考えていただきたい。


posted by 玉泉寺 at 07:05| 日記

2019年08月18日

法を灯火とし、よりどころにして暮らす

この表題は、自灯明、法灯明の教えのことです。
釈迦は、弟子達よ,おまえ達は、おのおの自らを灯火とし,自らをよりどころにせよ。他を頼りとしてはならない。この法を灯火とし、よりどころにせよ。他の教えをよりどころとしてはならない。そして私の最期の時である。しかしこ死は、肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み,傷つき、こわれることはやむを得ない。仏の本質は肉体ではない、悟りである。肉体はここに滅びても,悟りは永遠に法と道に生きている。だから私の肉体を見るものが私を見るのではなく、私の教えを教えを知るものこそ私を見る。私の亡き後は、私の説き遺した法がおまえ達の師である。この法を保ち続けて、私に仕えるようにするがよいと佛教聖典に示されている。
 わたしたちがよりどころにする法とは、一体どこにあるのでしょう。釈迦の肉体ではないのですから。それは、その後に生きる生きる人々の生きざまにあるのです。他人の意見に振りまわされてはいけない。
  私は今夜を最期に、此の世を去っていく
  どうかあなた方は法によって生きていってほしい。
  どうか道を求めて精進して欲しい。
posted by 玉泉寺 at 03:11| 日記

2019年08月05日

無心になること

花 無心にして蝶を招き
蝶 無心にして花を訪ね
花 開くとき蝶きたり
と良寛上人が詠んだ、花咲くとき蝶やミツバチたちは冬眠から醒め,蜜の香りに誘われて花を訪ね、蜜をご馳走となる。無心にご馳走になりながら、お礼をするとも思わず,次のはなの中にもぐり込みつつ、花粉を媒介にして受粉のお手伝いをする。花の方もご馳走したと思わず、蜜を提供し、受粉のお手伝いをしてもらったとおもわず、媒介という大役をしてもらっている。たがいにまったく無心ののままみごとに天地の大調和の働きの従っている。
今の人間界を振り返ると、無心になっていない。下心、よこしまな思い、権力で忖度しているのが現実である。何らかな見返りを求めて生きています。だから生きるのが苦しくなる。もっと、自然に生きられないだろうか。どんなに楽に生きられるのでしょう。
なるようになると言う気持ちが大切ではなかろうか。
posted by 玉泉寺 at 05:51| 日記