2019年05月29日

私はかくのごとく聞きました

 仏様の教えは、人間は一瞬一瞬の縁を生きる身であると教えています。だけど、私たちは死なないつもりで生きているのではないだろうか?と私は思う。
 生きていることに慣れてしまって、朝、目を覚ました時に驚きや感動がない。同じような日常が繰り返し繰り返しやってくると疑うこともなく暮らしている。
 すべてが、あたり前という言葉で片付けられていく。縁とは不思議なものであり、自分に感動を与えてくれます。その不思議なことを学び、そして、生きがいを見つけて、命を全うして行くのではないかと私は今考えています。命は、後世につなげていくことが幸せに生きることだ。と信じ、生きて生きたい。
いつか、自分を死んで行くのだから。
posted by 玉泉寺 at 10:16| 日記

2019年05月25日

色受想行識とは何

表題の言葉は、般若心経の中に出てきます。この意味は、人間の心の働きを現しています。
色は身体、受は感受性、想は記憶、行は意志、識は意識という意味があります。
つまり、人間には肉体と精神との両方があって、それぞれが盛んの欲望の炎を燃やしている。之れが人間として生きて行く苦しみに遭うのである。
お釈迦様は、すべての欲望をなくすということは極めて難しいという。それより、出来るだけ欲望を少なくすることを言っています。努力していくことが大切なのである。之れを少欲知足であると説いています。
色即是空 空卽是色であるから、無の境地で有ります。
私も無になることありません。無になれば、どんなに楽に生きられるのにと思うばかりです。
posted by 玉泉寺 at 07:17| 日記

2019年05月23日

身はいやしくても・・・

身はいやしくても、畜生には劣らんや 家は貧しくても餓鬼には勝るべし 思うこと叶わずとも地獄の苦しみには比ぶべからず・・・・
と今から一千二百年前に、恵心僧都が書き止められています。
私は、お寺の建物に住まわさせて頂いています。贅沢を言えばきりがないと思います。雨風忍べば、ありがたいことです。人々の残してくれた建物をいとおしく思うようになりました。だから、痛んでいる所を治すことが私のつとめであり、僧侶の生き方であると気づかせて頂きました。
医者が、病気の治療をすするように、僧侶は、苦しみを少しでも軽くする事が大切なことであります。人はできる限り長生きしてもらう為に、仏様を供養するするのです。
わたしは、今、たくさんの人々と出会い、幸せになってもらう事を祈ることだと考えています。
posted by 玉泉寺 at 10:36| 日記

2019年05月22日

人間に生まるること大いなる喜びなり

平安時代に生きた恵心僧都のことばです。一千二百年前と現代と同じ事が言えると思います。
人間って、素晴らしいです。会話が出来ます。幸せを感じる事ができます。他の生物より絶対にいいです。
前世に悪い事をしていれば、来世は、人間に生まれる事はないでしょう。だから、善いことをしましょう。他人に迷惑をかけないようにしましょう。之れは普通の生き方だと思います。
お寺は、その悪いことを悔い改める所だと思います。お寺参りで、わるい心をはき出し、いいものを身体に入れて、そして幸せな生き方をするところです。
善かったら来て下さい。きっといい出会いがあると思います。
posted by 玉泉寺 at 10:59| 日記

2019年05月19日

手と手を合わす

 右手と左手を合わすというのは「合掌」という行為をあらわす。古代インドの礼法であり、相手に害心がないことを表現する手段でした。合掌は仏教にも取り入れられ「右手が仏様、左手が自身として、手を合わせると仏様と自身が一体となる」「相手に無差別に敬意や尊崇を示す」という解釈が加えられ、現在のかたちとなっっています。
私たちの心は、煩悩に苦しみ、いつも安らかになることがありません。一つの欲を満たしたなれば、又次の欲が生まれて、まるで蟻地獄ような者です。仏様と一体になることで、安らかな心をなり、欲を静める働きがあるのです。
又合掌には、感謝き気持ちを表します。相手のことを思いやり、尊厳の気持ちを表します。
握り拳は、相手に怒り気持ちを表し、手のひらにはたなごころを表します。阿弥陀様の手を見てください。手のひらを、拝む私たちに向けています。これは凡夫(私たちを)を救おうとしているのです。
、私たちは一人では生きられないのです。それが仏様で在り、見えない者を信じて生きているのです。だから手と手を合わすのです
posted by 玉泉寺 at 07:15| 日記