2018年04月28日

三止三請(さんしさんしょう)の言葉の意味

人は、善い因を積むことで、宇宙の調和がとれると言う意味です。この言葉が、お釈迦様が、法華経の2巻に説いています。因とは原因であります。物事には、原因があって縁が結ばれるのです。すなわち、悪い原因を作ってしまえば、悪い縁となり、人々の争いごととなり、人類滅亡の危機に陥ります。
 お釈迦様は、世界平和の実現に向けて、インド中に説法し歩かれたのです。
 善いことをすれば、善い縁に触れ、良い結果が得られます。そして善い報いが得られる。
 法華経を読祷すれば、人生の苦が消滅し、善い報いが得られるのです。
posted by 玉泉寺 at 09:04| 日記

2018年04月24日

戒を守ると心安らかに暮らせます

僧侶になるためには、厳しい修行を受けなくてはなりません。その修行を受けるのに、得度という儀式を受けることを義務づけられています。得度というのは、僧侶になるために宣誓です。ここで、貫首猊下から問答を受けます。猊下「よく戒を保つや否や」弟子は「よく戒を保つ」の問答を3回繰り返します。つまり悪い行いをしませんと言うことです。(1不殺生戒2不偸盗戒3不飲酒戒4不妄語戒5不邪淫戒です。)これらの行いは人を傷つけます。僧侶たるものは、人から尊敬されて、教えを説き、見本にならなければなりません。僧侶は、人と同じ生活をするのではなく、常に自分を律して、悪い行いをしないように、戒めなければなりません。私利私欲とか、むさぼるとか自分の為ではなく、人々は幸せに暮らせるように見守り、仏として時には話をして、ありがたい心を養うことが、僧侶としての生きる道なのです。人々はいずれは死に帰すと言います。とにかく善い行いをして、多くの人々から慕われそして、善い生き方をしたいものです。悪い行いで、命を落とすより、いいことをして、一年でも寿命がたまえ得られる人生を送れよう願っています。それは悪い行いをしないことであります。戒を保つや否やと言われたら、よく戒を保つと行って欲しいです。そうしたら、心穏やかに長生き出来ると考えます。
posted by 玉泉寺 at 07:41| 日記

2018年04月23日

無我三昧とは何

無我と言う言葉は、執着しないといういいです。自我がない。煩悩がないとも言います。それでは、煩悩がないと、どんなに安らかに暮らせるのでしょうか。苦しむと言うことがないのです。生きる苦しむ、老いへの苦しみ、病気への苦しみ、そしてやがて訪れる死への苦しみこれらの四苦があるが故に、執着するのです。
 そこで無我の境地にあこがれるのです。座禅はその一つの実践なのです。先ず、足の裏を上に向けて座り、てのひらを上に向けて重ね合わせて、目はうすめにながめて、背筋をうえに伸ばして、数時間じっとそのままにしているのです。お釈迦様の悟りの姿なのです。
 はじめは、足が痛くなり、目のうすめがつかれてくる。そして、頭の中が、混濁してくるのです。早く終わって、足を伸ばしたい、食堂に行ってご飯を食べたい。映画をみたい、水が飲みたい、ビールが飲みたいなどなど、多くの欲望が生じ、悪魔のささやきが聞こえてきます。これが煩悩です。そして、時間が経てば、その煩悩がうすれ、執着が薄れてくるのです。徐々に無我の境地が現れてきます。此の体験を続けることが、無我三昧と言います。実にすがすがしく、気持ちが良くなります。そして、自分の生きる道を見いだすことが出来ます。
posted by 玉泉寺 at 07:20| 日記

2018年04月22日

空とは何ぞや

何にもないのです。私とて、いずれは死んで行くのです。このあとは、人間の細胞がなくなるのです。いまを生きるのです。そして、因縁によって生じて来るのです。
 人間は、37兆2千億余りの細胞で出来ているのです。それが一遍になくなるから不思議なことに出会うのです。
 今日の私は、昨日の私と違うのです。だからおもしろいのです。これに気が付けば、悪はなくなるのではないでしょうか。今日、人を傷つけたら、明日は改心して、良いことを行うのです。でも、現実はそうは行きません。なぜなら、親も他人も、知らん顔できづさせてくれない。だから悪い事が悪い事をしたと思わないのです。仏様は、目には見えません。でも、仏様は、私たちを見ていてくれるのです。仏様が見ていてくるから、悪い事をしたら、改心して、次はしなくなるのです。
 いま、悪い事のオンパレードです。気づかせてくれないから、悪い事が助長してしまうのです。親が見ていなくても、人が見ていなくても、仏様は見ていてくれるから、悪い事をしなくなる。これこそ、お釈迦様の教えです。
当山には、地獄絵図、涅槃図、両界曼荼羅図があります。これで仏の姿を見てください。そうすれば、このよから悪い事がなくなるように考えているのですが・・・・・
posted by 玉泉寺 at 08:20| 日記

2018年04月19日

は藍より出でて、藍よりし

 この言葉は、中国の旬子の言葉であり、しかも私の祖父の書に残されたものです。これを檀家様が手に入れた頂いたことに感謝です。私の祖父は、天台真盛宗の39代目の貫首であり、一門の最高の位を頂かれたのです。なかなかなれるものではありません。おそらく、この言葉どおりの人格者になられたのではないかと推測させていただいています。どんなに優れた才能を持つ人でも、努力をしなければ、その才能の花を開かすことが出来ないのです。それを人生の目標に、書にしたためられたことは感動です。私自身、目標が出来た思いです。私もあと何年生きられるかわかりませんが、努力を続けて行きたいと心新たに生きなおそうと決意いたしました。
posted by 玉泉寺 at 06:27| 日記